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ARTICLEレポート、インタビューやAIRに関する記事など

レポート&インタビュー2015.3.9

AIRと私 06:陸前高田──探訪と発見

コーネリア・コンラッヅ(アーティスト)

「要するに、景色とは外なる自分と内なる自分のつながりである」
(“In short, landscape is the link between our outer and inner selves.”)
ビル・ビオラ著『空っぽの部屋を叩く理由』(Reasons for Knocking at an Empty House)P253

「私の場所」に出会う方法

情熱の旅人として、そしてサイト・スペシフィック彫刻家として、これまでに世界中の国々に滞在し活動する機会がありました。多くの場合(そうすることが好きなのですが)、前もって計画を立てず旅に出ます。旅先に着いていつも最初にすること、それは「歩く」ことです。作品のための場所(サイト)やフォルムを求めて見知らぬ土地をあてもなく歩き、道端に転がるものを拾い集めるのです。それは、形や素材であったり、その土地の習慣や出来事であったりします。
私の作品は例外なく、それを創る場所と深く結びついています。場所を背景として見るのではなく、テクスチャとしてとらえているのです。「自分の作品がこのテクスチャの一部になること」を目指しています。


『ジャルダン・アン・ムーヴマン(動く庭園)』
4 x 4 x 1.2m。材質:石、セメント、鉄。曲がったコルクガシ周囲に設置。
ドメーヌ・デュ・レイヨール – ジャルダン・デ・メディテラネ、レイヨール・カナデル・シュル・メール(フランス)2014

それゆえ私は、その場所特有の「匂い」と「音」、そして「ストーリー」と「メモリー」を追い求めているのです。その一方では、歩くことでその場所と密な対話ができるとわかっています。その場所を取り巻く景色や建築、植物、歴史に思いを巡らせるのです。「歩いてゆけば『私の場所』、つまり『思考とインプレッションのすべてが凝縮され、それがイメージやアイデア、プロジェクトとなるスポット』にいずれ出会える」という現実に任せておいていいのです。
アーティスト・イン・レジデンスや委託作品の制作、展覧会などを通して経験してきたように、この「探訪」と「発見」のプロセスは、いずれの場合もエキサイティングでスペシャルなものだということは言うまでもありません。にもかかわらず、ここ最近のプロジェクトでは、時折、意に反して「マンネリ」のようなものを感じることがありました。

ここでアートは可能なのか?

陸前高田を歩いていて気づいたことがあります。これまで私が活動していたのは、ほとんどの場合「守られた」場所だったということです。芸術作品はプレビューされ、アーティストとしての私の役割ははっきりと定められているような場所でした。例えば、公園や森林、庭園などのように、余暇を過ごし、美 ─ 存在が危ぶまれているとしきりに感じ、それを作品の中で訴えています ─ を楽しむために作られた場所です。
一見したところ、陸前高田には美しいものは何もありませんでした。実を言うと、最初はショックでした。苦痛に満ちた傷だらけの景色の中を歩いて行きました。陸前高田は、第一の「自然の」津波から被害を受けただけでなく、町を再建するために工業面で干渉されたことによっても害を被りました。巨大な機械が、山・森林・海岸といった景色を部分的に消し去ったり形を変えたりしているのを目の当たりにしました。私にとってそれは第二の「人工の」津波とも呼べるものに思えました。自然との戦いにおける人間の復讐という蛮行に見えたのです。これまで私が日本の哲学や伝統の中に感じとってきた「自然との思慮深い付き合い」をそこに見つけることはできませんでした。


陸前高田 ― 復興エリア

私を変えた人々との出会い

最初の数日は、ここに来た目的やアーティストとしての私の役割についてあれこれと考えました。「ここでアートはできるのか?」「そうすることに意味はあるのか?」「私が何か役に立てることなどあるのだろうか?どう対応すればいいのだろうか?帰りの航空チケットという逃げ道をポケットに忍ばせながら、被災地の真ん中に降り立った遠い国からやってきたよそ者として……」

私が大きく変わるきっかけとなったのは地元の人々との出会いでした。
陸前高田の人々に魅了されたのです。人々の好奇心、ユーモア、思いやり、自分たちの身の上話(ストーリー)や思い出(メモリー)を分かち合いたいという気持ち、大いなる悲しみを耐え抜き最初からやり直す勇気、ゼロから何かを創り出す力、威厳。たちまちにして、自分のことをもはや「よそ者」とは思わなくなりました。そればかりではなく、アーティストとさえ思わなくなったのです! 目撃者、それに尽きるのだと感じたのです。
これは、今回の滞在の新たな、そして他では得難い側面です。核とすべきは、独りでひとつのプロジェクトに取り組むことではなく、協働すること、社会生活の仲間入りをすること、人々と出会うことだったのです。


仮設住宅住民との出会い

人々、特にお年寄りの美しさを知りました。また、景色の中に人々が残した印や痕跡を見つけました。例えば、念入りに手入れされた記念碑、思いやりの心から誰かが拾って保管している遺失物や壊れてしまった品々です。それを見て、何年も前に読んだ松尾芭蕉の俳句をふと思い出しました。

よく見れば薺花咲く垣根かな(松尾芭蕉)

「薺を見つけること」が私のテーマとなり、それからはカメラを持ち、次のような松尾芭蕉の訴えを胸に歩いて行きました。「よく見なさい! 生命のわずかな動き、ちょっとした兆候にも注意を払いなさい! そうしたものはすぐ足元にあるのについ見落としてしまうのです。けれど、いったん見つけだしたなら、それらから学び取れるものがあるのです。ちょうど『薺』のように」そして、私が陸前高田で出会った人たちのように。
第一の探訪の成果は一連の写真です。そこには、「薺」の真髄が表れていると思えた様子が写っています。これらの写真を撮った目的に通底するものは、写し出された状況はたちまちのうちに消えてしまう、もしくは変わってしまうという「はかなさ」です。それらを記録することで、納得できる自らのやるべきことと役割を見つけました。それは、変わりゆく場所のその瞬間の姿を残すこと、そして「クリエイティブな目撃者」となることです。


フォトシリーズ「シェパーズ・パース(ナズナ)」から

歩いている間は自分の「嗅覚」に従いました。そうして頻繁に行き着いた先は、気仙川上流の左岸のとある場所でした。そこは津波の爪痕が今なおはっきり見てとれる場所です。


津波の痕跡

高みに残った林と周囲の丘のふもとに生える背の低い植物との境界線は津波の高さを示しており、その残響音が今なお聞こえてくるかのように時折感じられました。この地にはまだブルドーザーは入っていませんでしたが、日を追うごとにその距離は縮まってきていました。色あせた写真、小さな記念碑、念入りに手入れされた庭―これらは、人々が災害に立ち向かっていこうとする気持ちを表していました。私にとってそこは「薺」が頻繁に花を咲かせる場所でした。


小さい記念庭園の残骸

かけらを拾い、「ストーリー」と「メモリー」をつなぐ

丘の上の小さなお寺 ─ 落ち着いた場所で大変気に入り、そこをよく出発点にしていました ─ の周りを巡っていると、割れた陶器のかけらが散らばっていることに気づきました。それはまるで海辺の貝殻のようでした。半分土に埋まっているものもあれば、太陽の光を受けて輝いているものもありました。津波が無数の鉢や皿を粉々に打ち砕き、その破片を一面にまき散らしたことは一目瞭然でした。それを見て思いついたのは、破片を全てモザイク状にもう一度つなぎ合わせ、大きな鉢もしくは柱の形にするということでした。


モザイクボール(企画書紙片で作成:フォトモンタージュ)

仲間とともに、大きな箱2つ分の陶器のかけらを集めました。
「過去」がいまだに色濃く「現在」として残るこの場所を歩き、収集作業をすることは、私たちそれぞれにとって本当に特別な経験でした。


壊れた陶器の破片コレクション

その後、拾い集めたかけらを一つひとつきれいにして、安全な場所に保管しました。かけらを集め、きれいにし、つなぎ合わせることは、私にとって「ストーリー」と「メモリー」をつなぎとめること ─ ある見方では歴史を紡ぎだす手助けをすること ─ を意味します。
将来の希望としては、陸前高田の状況がもっと落ち着いた後に常設できる場所を見つけ、そこに戻ってモザイク彫刻を現実のものにしたいと思っています。もし可能であれば、地元の人たちと一緒に……。

このように、私にとっての「陸前高田アーティスト・イン・レジデンス」は疑念と疑問で幕を開け、そして、戻ってきて続けたいという願いで幕を閉じたのです。「作品の完成」を目的にするアーティスト・イン・レジデンスのプログラムが多い中、ありがたいと思ったのは、陸前高田のプログラムは「リサーチ」を目的としているということです。そうであったからこそ、私は自分の中の疑念と疑問に向き合うことができたのです。実際、アーティストにとって疑念や疑問は欠くべからざるものであり、時として向き合わなければならないものなのです。
今、振り返りつつ活動報告をまとめながら思うことは、陸前高田で得た経験は際立って充実したものであり、実り豊かなものだったということです。滑り出しが難航したことも理由のひとつでしょう。そして、文字通りの意味で、また気持ち的にも「その地に触れた」からだということは間違いありません。
言うまでもなく、基本、心に留めておくべきことは―他にはないこのプログラムのチャンスでありチャレンジなのですが―マンネリとも、いわゆる「芸術世界」のあり方ともかけ離れたところにおかれていること、そして、オープンリサーチに重点を置くことです。つまり、詳しく調べ、様々なものの間に橋を架けることです。言語や文化の壁を乗り越え人々の間に、過去と未来の間に、そして内なる景色と外なる景色の間に。

滞在期間:2014年11月15日~12月8日


コーネリア・コンラッド セレンベ(アメリカ)にて 2013

コーネリア・コンラッヅ(Anna Ptak)
1957年、ウッパータール市(ドイツ)に生まれる
哲学、文学、文化科学を学ぶ

1998年よりフリーランスのアーティストとして活動、主にサイト・スペシフィックな彫刻・オブジェを制作する

オーストラリア、アジア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパにて、彫刻およびランド・アートプロジェクトに数多く参加
パブリックスペース、彫刻公園、プライベート・コレクションのための委託作品(常設・企画)の制作
アーティスト・イン・レジデンスへの招へい:オーデンセ(2001年デンマーク)、アーレンショープ(2001年ドイツ)、神山(2005年日本)、サン・ピエール・ド・シャトルーズ(2006年フランス)、青森(2009年日本)、ベイカーズフィールド(2011年アメリカ)、ユーティカ(2012年アメリカ)、セリンビー/アトランタ(2013年アメリカ)

http://www.cokonrads.de/

[2015年1月]